鳥羽離宮跡の散策(2)

田中殿の跡

 平安時代の応徳3年(1086)白河上皇によって始められた鳥羽離宮の造営は、まず南殿、次いで北殿、東殿(泉殿)等、何十年にもわたって次々新しい御殿が築造されてゆきました。そして仁平2年(1152)には田中殿が築かれました。「慶を申さんがために鳥羽に参ず云々、御所田中殿新御所なり」(山槐記)。ここは当時の新院(崇徳上皇)がもっぱら使用されていたようです。
 崇徳上皇は保元の乱の責任を問われ讃岐へ配流となりましたが、その旅立ちの際、鳥羽離宮をお通りになったときのことが保元物語に描かれています。「夜もほのほのと明行は鳥羽殿を過させ給とて、重成を召れ、田中殿へ参て故院(鳥羽上皇のこと)の御墓所を拝み、今を限の暇をも申さんと思ふは如何と、仰下されけれは、重成畏て、安き御事にて候へとも、宣旨の刻限移り候なは、後勘如何と恐申けれは、誠に汝か痛申も理也、さらば安樂壽院の方へ御車を向て懸はつすへしと仰けれは、即、牛をはつれ西の方へ押向奉れは、只御涙にむせはせ給ふよそほひのみそ聞へける、是を承る驚固の武士ともゝ、皆、鎧の袖をそ濡しける、暫有て鳥羽の南門へ遣出す」(保元物語)
 当院から西北西に約200メートル、発掘調査により、田中殿と確認された場所があります。地上には、その痕跡をうかがわせるものは何もありません。写真のとおり近年建てられた「史跡鳥羽離宮 田中殿之跡」と刻まれた記念碑があるだけです。鳥羽上皇と崇徳上皇の争いの舞台のひとつ、保元の乱の発端の地、鳥羽離宮田中殿の跡は、現在、雑草が茂りゴミが散乱する殺風景な公園となっています。一度は華やかなスポットライトを浴びながら、現在は世の中から忘れ去られ、貧困の中、静かに余生を送っている元スターといった風情です。


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